昭和51年10月26日 朝の御理解
御理解 第61節
「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしていくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」
「信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしていくのが、真の道を踏んで行くのぞ」と。人に伝えていくということ。最近教団で言われます実意丁寧愛の心をもってと、この愛の心を持ってと言うところに、伝えずにはおれないというものが生まれてくると思うんです。それにはやはり自分自身がおかげを受けてとあるように、おかげを受けなければなりません。本当に信心をさせて頂くようになって、心が平生心を頂く事が出来る。信心に心の喜びを頂く事が出来る。おかげで家庭が円満である。
私はそこのところそういうおかげならば、合楽で信心をしておられる方達は、皆んなおかげを受けられておるのじゃないかと思います。最近言われる「寛」の字で行こうという、どんな事であってもそれを神の働きと見るという頂き方。そういう頂き方から寛大な、言うならば広い心が頂けれる。今度の御大祭でまぁあのう著しいそのうおかげがある、頂いておられるのが、もう初めてお参りをしたという人達であります。もうこれはまぁたまがる位です。日々そういうお届けが御座います。
「はぁあぁいうこういう生き方で行けば、成程心が円満になる。心が家庭の円満が頂けると言う様な、受け止め方をなさっておられる方が多い事です。ですからそういうおかげを受けた方達がです、必ず人を導いておられるということです。初めてお参りさせて頂いたが、もう大変なお参りじゃった。もう大変な御大祭じゃった。あげな御大祭ちゃ知らじゃったと。例えば言うだけではなくて、その後のお話が素晴らしかった。もこれで行くならやっぱ金光様の信心すりゃおかげ頂くばのと言う様な受け方をしてある。
ただ御大祭が盛大であった。お供え物が素晴らしかったというだけではなくて、それが殆どの方が、その寛の字でおかげを受けておるということである。皆さんの場合なんかはそれがそう感じるだけではなくて、それを実際に日々の生活の上に頂き現わしておられると、まぁ私思うですからその事だけでもおかげを受けた事になるのですから、もう本当にやはり自分がおかげを受けなければ、だから初めてお参りした人たの、そのおかげの実感というものが、人に伝えなければおられない事になっている。
だからそれを日頃頂いて、行の上に現わしておる人達であるならばです、この生き方を身につけていくならばです、またこういう行き方があるんだと、自分がそれによって助かっておるならばです。伝えずにはおられない。これは私は日々の御祈念の時に、それを思うんですけども。私位の者がこの様なおかげを頂いておる。だから私位の者でもこの様なおかげが受けられるんだから、この様なおかげを受ける人が、世の中に一杯出来たらどんなに有り難い、幸せな世界が開けて来るだろうか。もう本当に切に思います。
ですから私がおかげを受けておる事を、皆さんに一生懸命聞いて貰うて、皆さんもまた一生懸命それを聞いて頂いた事を、守って頂いてそこに実感がです。こういう心になられたら、どんなに素晴らしいだろうかというものが、私は光の輪となって行くんだと思うんですね。そりゃやっぱり例えば病気なら病気が治ってしもうてから、やっぱり金光様の信心しよら、立派な家を建てたり金持ちになったりして、これを見て下さいと言うて導きかな、と言よる内に全然お導きは出来んごとなってしまう。不思議です。
成程そういうなら真善美に輝くようなおかげを頂いて、それを合楽示現活動に参画させて貰う、という一念に燃えていけばいよいよ素晴らしい。その為には先ずお互いが貧争病のない世界に、住まわせて貰うための修行です。信心させて頂きよって貧があってはならない。争があってはならない。病があってはならない。そこで私共が間違いのない信心をさして、間違いのない信心を目指してでしょうね。間違いのない信心を目指してどの様なおかげを頂いても、この健康を疎かな事には使いません。
この財を疎かな事には使いません。この心の状態を頂き続け持ち続けさして頂いて、いよいよ寛の一字に絞っておかげを、もう生涯これには取り組んでいく事でしょうと、言う様な自分でも確信でけれる、頂いても落とさんで済む心の状態が出来た時に、初めて貧争病のない世界を許される。そしてそれが一途に、合楽示現活動に参画させて貰うと言う様な働きになり、真善美のおかげを頂く。これは私共の信心の理想であり、その理想実現のためにお互い信心の稽古をさせて頂くのであります。
だからそういうおかげを頂かなければ、人に伝えられんと言った様な事ではないのです。初めてご大祭にお参りさせて頂いて、はぁ素晴らしいご大祭であった素晴らしいお話であった。その素晴らしいお話も親先生の言われる話。いうならあぁいう頂き方大祭の芯はやはり私。その芯は私の奉る玉串にある。その玉串の作り方が本当によれよれの出来であった。誰が作ったかと例えば責めるのではなくて、その姿そのままが私の心だと。
私の心があぁなんだと思うたら、責める事も要らなければ、自分自身をいよいよ厳しく見るということだけであって、自分が改めていくということに焦点を置くだけであって、誰がこんなのを作ったかと、言うて責める事はいらんと言った様な話が、寛大の中に入ってくる訳。そして成程あぁいう生き方をすれば間違いのない、言うなら喜びの生活に入っていけれるんだと、そこへんのところだけを初めて参った方達は頂いて帰ってるですね。もう本当に驚くばかりにです。
そして昨日もお話しました、大山の一の宮さんでしたか当たりの様に、もうそれからの家内の変わり方には驚いとります、という程に変わっておられるということです。一昨日からここの合楽の方で、ちょうど私が座っておるこの下がその方の地所じゃったという方が、参ってきておられました。それも大祭に初めてお参りをさせて頂かれた。合楽の金光様ちゃ目の前。ここが始まる時にご案内を受けた。けれどもその時は自分が都合で息子がおかげを頂いた。もうそれから十年に約なる。
前に金光様がある事は言わば知っとりましたけれども、お参りさせて頂いたのは今度の大祭が初めてです、その大祭に感動してそれ感激して、そして自分が願わなければならん事を、おかげを受けなければならん事がいくらもある。と言う事から昨日一昨日から参っておられる。先生あなたのここに座わっとんなさるここの下が、ちょうど私の方の地所じゃったとこういう訳何んですね。
本当に合楽というところは、大変なことだという様な事を気付きましたと。だからこの合楽の土地のここには、今日本国中の人達が注目をして、日本国中の人達がねみんなが集まってくる訳じゃないけれども、合楽へ合楽へとお参りをして来とる。まいっときしよると世界中の人達が注目するようになるでしょう。そういう大変な言わば、私共がお預かりしとった地所が、そういう尊い所になったということだけでも、まぁ感動だとこういう訳なのです。ちょうどこの辺の下じゃったとこういう訳です。
大祭の感動。頂いたお話の素晴らしい事。成程この生き方で行けばとこういう訳であります。昨日も息子さんの結婚の問題でお参りになりました。ちょうど期せずしてまぁ大変都合のよい二人の候補者がある。それでまぁ結婚に踏み切ってもいいだろうか、と言う様なお伺いでお参りになりました。それで始め誰々さん。何々さんという。始めの方が大体陰見をして、気に入っておられるそうですけれども、私その事をお願いさせてもらいよったら、『鶴亀』を頂くんです。鶴と亀を。
だから言わばめでたい訳ですね。けれども実を言うたらめでたいようでめでたくないと。なぜかと言うと歌の文句にもあるようにね、「鶴は千年亀万年。という後の九千年な後家暮し」と言う様な事になってはいけないから、よかろうめでたいごとしてめでたくないから、次のその方の方がいいですよということであった。もう本当にご縁を頂いたばっかり。それで息子さんはあのうその方のほうが、心が傾いておられます様に。
だからこういう大変な事をたった二日、大祭ともに三日お参りさせて頂いたばっかりにです、こういう大変な事を頂かせて貰うてという訳です。人間の幸不幸というのはね本当に紙一重ですよ。器量もよい。どっちも器量もよい訳です。年配も一つ違いで位です。けども出来れば息子はこちらの方がちょっとも良かと、それに傾いとるとこういう訳です。けれどもそれはいかにもめでたいようだけれどもめでたくないちゅうんです。
そして向こうももうやる気でおんなさるというのですから、もうとんとん拍子で話を進めるなら進められる事になっとるのだけれども、そのほんの一歩手前と言う所で御理解を頂いて、この事を息子に話させてもろうて次の方にするという事に、まぁなると言うことになればです、もう本当に信心ということはこの様に素晴らしいこと。だからそういうおかげを受けたらです、それをまた人に伝えて行かなければおられない信心が、私は信心だと思います。いわゆる信心だとは真心だと思うです。それが愛の心だと思うです。
自分がおかげを頂いて間一髪。そういうもし御神縁を頂いていなかったら、それこそ鶴亀の結婚になっとったかも知れない。それを言うなら一歩手前で、「はぁそういうことが凡夫で分かりません。本当におかげを頂きました」。そしてそれがおかげを頂いた暁にです、もう本当に金光様ちゃ有難いということになる訳です。だからそういう意味でのおかげなら、皆さんがなんぼうでも頂いておられる訳ですね。真善美に輝くようなおかげを頂かなければ、人に伝えられんなんて言う様な事ではない。
おかげを受けたらそれを神心になりて人に伝える。それが実意であり丁寧であり愛の心であります。おかげを受けたという喜びを人に伝えなければおられない。私は今日はそこのところに絞って聞いて頂いたんです。昨日東京のお父さんが久しぶりで見えられました。お茶を差し上げながら聞かして頂いたお話の中に、大変懇意にしておられるここの大分県の何とかという、大変偉いお坊さんと大変昵懇にしておられます。その方は大変な達筆家で字が上手な方です。だからそのうちの寿司屋の暖簾にする字を頼まれた。
握りという字を一字書いてくれと。そしたらそのお坊さんが言われる事がです、私は感心致しました。「経文の中に握りという字はない。沢山な字があるけれども、経文の中には握るという字がないと。だから三年間待てと。三年間稽古をしてから書いてやる」と言わしゃった慎重ですね。私は本当にあのうそういう慎重さがいると思うです。私共とは全然意味が違いますけれども反対に。握りという字は経文の中にないから三年間稽古するという、握りという字を。そして書いてやる。
そして三年後に書いて下さらなかったのが、今二葉寿司の白いのれんに握りという字が一字書いてある。そりゃ見事な字です。三年間稽古した。上手の上にまた稽古をなさった。私共の場合はもう、根っから字が下手ですから稽古すりゃ稽古するほど、誰かが色紙を持ってきて書いてやるから、外にいっぺん書いてみたりしたら、もう字が出来ませんですこれは不思議に。もう願われる人の前であの筆を執って書かせてもらうのですから、もうその生き方とは全然違います。
それはあのう神ながらと言う事なんです。私のはよい字を書いてやろう、稽古して書いてやろうというのとは全然違う。三代金光様でもやっぱそうでしたですね。その場でお書きになる。字が良いとか悪いとかそんな事全然問題になさっておられない。ただ書いてくれというから書いておられるだけ。そこに言うならば神ながら人間心が全然入らない、言うならば有り難い字が頂ける訳。だから良い字と言う事になれば、やはりそういう慎重さがいるですけれども、まぁ合楽の場合はそこに慎重さが非常に欠けております。
これは字のことではありません。何かにつけて慎重さが欠けております。これは合楽のまぁ改めなければならないなら、そういうところじゃないかと思うくらいに、合楽全体が慎重さにいつも欠けておる事を思わせられます。偉い坊さんのあれと違います。だからそういう生き方で、例えば今日の御理解を頂いて下さるとです、いつまでたってもお導きは出来ないということになります。
先生三年間待って下さい。そしてからなら私が人にもお導きしましょう、と言う様な事ではいつまで経ってもだめだということです。何故って、そのような三年間ぐらいで真善美に輝くような、おかげが頂ける筈はないからですね。だからおかげを受けたなら自分の心に、初めて御大祭にお参りをした。大祭の言うならば御比礼に浴した。だけではなくてその御比礼の有り難いなかでです、もうそれこそ長い時間座らせて頂いておったけれども、お話が例えば頂くときには足の痛さも忘れて聞く程しに有り難かった。
その有り難かった事だけを、人に伝えれば、もう次々とお導きが出来る。しかもその内容の中になら寛の字。はぁ成程その生き方で行けばと、自分が実感して成程と思うたら、その成程と思うた事を、愛の心をもって人に伝えていったらいい。その大分の偉い坊さんが何かあのう、句を送っておられます。その中にお父さんの名前が、三千三と書いてみちぞうと読むんです。だからその三千三と言う、それを入れてですね、三千世界一握りと書いてある。
だから私が申しました。本当にこういう有り難い信心を、なら私が世界万国に桂先生がこの有り難い御教えをです、この有り難い金光教をです、世界の隅々にまでも広げるという大願を立てられた。その後を受けられた先生方。そして又私がそれを受けて、本当に世界の隅々にまで、それこそ三千世界を一握りにさせて頂ける程しのですおかげを頂きたいと思います。それには力が要ります。
それこそ真善美に輝く程しの、それこそおかげをですね頂かなければ、そういう働きにもなってきませんね。だからそういうおかげは勿論ですけれども、頂かなければなりませんけれども、ならそういうおかげを頂かなければ、お導きが出来ない。示現活動が出来ないということではないです。おかげを受けたら神心となりて、丁寧に人に話をしていくのが、真の道を踏んでいくということは、おかげを受けたらすぐに出来るということであります。はぁもう有り難かった。本当にとにかく一辺参ってみなさいと。
例えば大祭の模様を実感して帰った方がです人に伝える。愛の心ですよくこの辺で問題になる所である。まず自分がひとつおかげを頂かにゃ。人にお導きは出来んという人があります。成程そうですけれども、おかげを受けるということは、大祭に一日お参りしただけでおかげを受けるのですから、朝参りに一日お参りさせて頂いたら、あの朝の雰囲気の有り難いこと、又お話の有り難いこと。いちいち御無理ご最もなお話ばかりであること。成程これならばみんながおかげ頂きなさるはずだ。
これがみんなが合楽、合楽というて集まって来なさる筈だというものを、初めて参った人が。初めてそれを頂いた事を伝えて行けれる。それがおかげだということなのです。今日は、おかげということをね、もう本当に簡単に頂くおかげ、簡単に人に伝えて行けれるお話と、まぁそれこそ三千世界を一握りにさして頂ける程しの大きな大願に燃えて、いよいよ真善美に輝くおかげを目指しての信心。そういう二つの意味を含めての人に伝えていくということを聞いて頂きましたですね。
どうぞ。